今帰仁御神物語 (なきじんうかみものがたり)

今からおよそ七百年程前の中北山時代の頃、今帰仁城の南側に志慶真村(しげまむら)という集落がありました。この「しげま村」に、乙樽(ウトゥダル)という絶世の美女がいました。その美貌のうわさは国中に広がり、又このようにうっとりとみとれるほどの綺麗な乙女は、神様みたいに気高いというので、「今帰仁御神」(ナキジンウカミ)と云われるようになりました。

ときの権力者は、神様のようだといわれるほどの美人を、そのままにしてはおきませんでした。そこで、今帰仁世の主(王)はこの美女(乙樽)を城内に召し寄せて寵愛(ちょうあい)することにしました。乙樽も、それを栄誉に思い、しげま村の人たちも、自分の村から「世の主」のおめがねにかなった美人が、お城に召抱えられたというので、その喜び方は大変なものでありました。

乙樽は、今帰仁世の主の寵愛を一身に受け、国中の乙女たちから羨望(せんぼう)されながら、毎日を過ごしておりましたが、王妃にも、乙樽にも子供が生まれず、そればかりを願っているうち、ようやく王妃に妊娠の兆候が、あらわれるようになりました。時に「世の主」もすでに六十歳になっていました。

 今帰仁世の主は、文武の伝統をかがみにして祖先の遺徳をあおぎ、徳をもって人民をおさめ、御代長久あらんことを祈っておりましたが、六十歳になるまで後継ぎの子供がなくいつもこれを気にしているうちに、ついに病床にたおれ再起もおぼつかない身の上となりました。

 そんなある日世の主は、近臣たちを枕元に呼び、「私には、皆が知っているとおり、後継ぎがいないので、そればかりが気がかりで、残念に思っていた。幸いにして妃(おなじやら)が妊娠しているようで、もし女の子であるなら、諸臣共の中から徳のある優秀な者を選んで聟(婿)養子として私の跡を継がすようにしてくれ、私のこのたびの病気では、治りそうにもないので、何分とも皆でよろしく取り計らうように」といわれ、間もなくして亡くなられてしまいました。

 「世の主」が亡くなってからの今帰仁城内は、まるで火が消えたような有様で、諸臣たちはじめ、国中の人も悲歎にくれました。ただ、生まれる子が男であるように祈るだけで、城内の武士たちも、国中の人民たちも、それを願っておりました。

 その中でも、乙樽は、城内の守護神として祀っている「天つぎの御イビ」の前にかしこまり、雨の日も、風の日も「おなじやらが安産するように、どうか男の子であるように」と祈りつづけ、その祈願の熱心さは、はたの見る目にもいじらしいほどであったと云います。

月みちて生まれたのは、みなの宿願のとおり、玉のような男の子でありました。国中の人々の喜びもさることながら、乙樽の喜びは、天にも上らんばかりで、涙を流して神に感謝申し上げ、それからは、母子の世話を一手に引き受け、ひまさえあれば、若按司(王子)を、乙樽はわが子のようにかわいがりました。その様を誰いうことなく、次の歌がはやりました。

『 今帰仁のぐすく 霜成の九年母 しじま乙樽がぬちゃいはちゃい 』

この歌は「今帰仁城内に生まれた王子が、王様が六十歳になってからの、時節はずれの子であるというので霜成の九年母にたとえられたのです。九年母とは(蜜柑)で春に花が咲いて、秋頃に実が熟するのですが、秋から冬にかけて、即ち、霜月(下月)の頃に花が咲いて実ることも稀にあって、これを霜成の九年母(シムナイヌクニブ)と云い、この霜成の九年母のように、その季節をはずれて生まれた今帰仁の王子を志慶真乙樽(しじまうとぅだる)が、大変かわいがった。」という歌であります。

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